脱ポストモダニズム宣言

English

​モダニズムは、絵画の自立を求め、その内側に閉じてしまった。  ポストモダニズムは、外側に根拠を求めて、感動を忘れた。    

私は、絵画の自立性を保ちながら、そこに「意志」を融合させたい。

中心という装置によって、作品の「構造」と私の「意志」を融合させ、内と外を繋ぐ。

これが、私の「脱ポストモダニズム宣言」です。

2025年 9月 森山龍爾

フォーマリズムは作品の内側にある本質を純粋に突き詰めた結果、探求はできても展開ができなくなってしまいました。色や形、絵画の要素とは何かと純粋に突き詰めることで構造以外の物語や人間の思いなどは余計なものであるとされました。

マクラッケンが神話を語ってもそれは構造から現れるものであって外から神話の言葉やイメージを持ってきたわけでは有りません。とは言え、展開のできないところまで突き詰めてしまったので、ポストモダンは構造の内部から展開するのでなく、文脈、つまり外側に作品の根拠を持たざるを得なくなってしまったのでしょう。

しかし今では言葉の力が優越になりすぎたと私は思います。

私はそんな時代とのズレにより葛藤をかかえました。なぜ感動より言葉が優先されるのかと。私のやろうとしたことを言葉にすれば、時代に逆らって本質である構造を再構築しようとしたのです。

私はそこで中心という概念を持ち込みました。中心は私にとって構造であると同時に意志を表明する装置でもあります。

私は中心を意図的に作品に持ち込むことによって、言葉ではなく構造としての中心で私の意思を融合させました。

私の作品は内部の構造に支えられて自立しているのでデュシャンの「泉」のように言葉や文脈に支えられる必要はありません。

ポストモダンの言葉が作品より優先されるものであっても、私の言葉は作品より優先されるものではありません。

制度と作品

私は最近までポストモダンについてもどういうものか理解できずただ混乱し、不安に思っていました。しかしそれが中心を疑う、権威を疑うという事、それゆえ多様性を認め、大きな物語は終わったと言われたことが分かって来ました。それはデュシャンがプロペラを指さし絵画は終わったといったころから始まったのかもしれません。あるいはポロックがオールオーバーの絵画を発明したころかも知れません。

モダニズムの絵画がジョン・マクラッケンの作品の様に物の様になって、さらに先を行く「もの」になってしまった。そしてコンセプチャルと、文脈によって作品を成り立たせる傾向が強まってしまいました。これが疑うことが正しいという制度になっているのだと思います。ここでいう制度とは美術界を取り巻く状況、リードする側という意味です。そこには美術館。ギャラリー、キュレーター、評論家、などが含まれます。ポストモダンはモダニズムの反省から始まって権威を疑うという姿勢で様々な作品を容認してきました。しかしそれが制度になってしまうと「疑うことをしない作品は古臭いものだ」という排斥につながってしまいます。制度は制度を守ろうとしてそれ以外の可能性を切り捨てる傾向があるのではないでしょうか。

私が学生の頃は既に絵画は古臭いもの。まだ絵を描いているのかと言われる時代でした。ゴッホにあこがれて田舎から出てきたものにとっては全く混乱する状況でした。しかしモダニズムの絵画は私を魅了しとらえてしまいました。内側にはそのようなはっきりと感じることのできる絵画についての喜びがありながら、外の世界では次々と展開される目まぐるしい美術の潮流の中で、私は何とか自分と折り合いを付けながら自分の表現が確立できないかと模索を続けてきました。一枚一枚これこそと思うものを積み重ねていけば光も見えるのではないかと。とりあえず今のこの一枚に集中しようという気持ちで取り組んできました。

その時、中心になるものとその周辺との関係。中心となるものと違う要素との関係。或いは全体との関係を見ることによって、作品が読み取りやすくなるということに気付きました。既にオールオーバーの絵画が古典的と思われているときに。しかし、いくら時代がそうだから、はやっているからといっても自分にしっくりこないものを作ることはできませんでした。縋りつくような思いで中心を追求するより以外に、私にはできませんでした。

 はじめは霧の中を探るような、あるいはこれでいいのだろうかと疑うような中心に対するかかわり方でしたが、ゆっくりくり返してゆくうちに自分の中でだんだん確信に変わってきました。中心を置くことによって構図的には制限されるけれど、むしろそれ以外のところは自由になっていくのではないかと。

それは凧に糸があることによって高く飛べるように。そして美術の様々な成果をとりいれることができるのではないかと思いました。

これは安易な引用ではなく中心をフィルターにして様々な成果を取り入れることです。それは安易な引用とは違うとはっきりとわかっていました。表面の形式だけ取り入れるならば説明するのも容易でしょうがそこに深さは無いと思います。私の引用は様々な成果を取り入れていますが取り入れることをアピールするためではなく、作品を深く豊かにするためのものです。それは言葉にしにくい質的な問題に関わっています。

現在ではポストモダンが美術界の制度となっています。

つまり中心を追求することは全く受け入れがたいものになっているわけです。なんでも受け入れる多様性と言いながら中心を受け入れることだけは受け入れがたいのかもしれません。なぜならモダニズムが追及した純粋性、普遍性に中心を核とする権威を感じるからでしょう。しかし今やポストモダンが権威となってしまいました。そしてそれを疑うことは許されなくなっている。疑うことを疑うとは信じることかもしれません。私が中心を信じるのは固定された権威の為ではなく、だれもが持ちうる創造性を解釈するために、視覚的に非常に便利だからです。私は自分にとって心地よくないポストモダンも否定するのではなく、ある意味多様性という意味で取り入れていると思います。つまり否定も肯定もしない立場でいようと思います。しかし同じ制度がいつまでも続くものではないと歴史は証明しています。

本質と概念の統合

本質は、確かにあります。あなたが絵を見て、言葉にできない感動があった時、それが本質です。それを説明する言葉が、概念です。

昔、デパートで、はるか向こうの何が描いてあるのかも、誰の作品かも解らない絵に感動して、急いで近づいてみると、それはピカソのポスターでした。感動が本質で、ピカソの絵であったというのが概念でしょう。

つまり、本質は概念より先に存在しているのです。

私は本質は概念に先立つと言いました。これは感動が先にあってそれを説明するのは言葉であるということです。では感動の要因は何だろうと考えた時、それは絵の色彩や形の配置つまり構造であると思います。これは文脈や社会問題ではありません。ここまでは私はフォーマリズムと同じです。しかし私はそこに中心という概念を持ち込みました。

なぜ私は中心を持ち込んだか。                  一つは内的必然性、時代と自分とのズレが葛藤を生み、より良い絵を描こうとして中心を画面の拠り所としました。そして中心をフィルターにして様々な美術史的な成果を取り入れられると思いました。そして一番重要なのは感動(本質)より文脈が優先される現状にずっと違和感を持っていたことです。

感動の要因は文脈でなく構造であると言うこと。中心はそれを可視化したものです。なぜそう言えるのか、中心は目を引きつけ画面に階層を生み、構造を作ります。中心を意図的に置くことは、構造を作るという意志の表れです。美術史の主流であるフォーマリズムやポストモダンニズムに対して、中心を置くことは、私の意志の表明に他なりません。

私にとって中心は構造であると同時に意志でもあります。

Ryuji Moriyama 森山龍爾