前層・後層・視覚法則

はじめに──なぜ「前層」という概念が必要だったのか

私が「前層(Zensō)」という概念にたどり着いたのは、 絵画を描く中で 「視覚がどのように立ち上がるのか」 という根本的な問いに 避けて通れなくなったからです。

絵画を見るとき、私たちは一瞬で像を理解しているように見えます。 しかし実際には、視線はまず揺れ、迷い、中心がまだ定まらない 収束直前の時間 を必ず通過しています。 私は40年を超える制作の中で、この未収束の瞬間こそが 絵画の最も本質的な生成の場であると確信するに至りました。

しかし近代の美術史は、この領域を扱いませんでした。 モダニズムは形式の純化へと向かい、 ポストモダンは中心そのものを否定したため、 「視覚がどのように生まれるのか」 という問いが欠落したまま残されました。

私はこの欠落を埋めるために、 視覚が画面に触れた瞬間に起こる揺れと生成の状態を 前層(Zensō) と名づけました。 前層とは、画面が揺れているのではなく、 視覚がまだ収束せず、複数の可能性のあいだを揺れ動いている 知覚の状態 です。

そして視覚法則が収束し、像がひとつの構造として安定する状態を 私は 後層(Kōsō) と呼んでいます。 前層と後層は、絵画の中に物理的に存在する層ではなく、 視覚が絵画を読み取るときに通過する時間構造 です。

概念説明─ 構造の立ち上がり

視覚は一瞬で成立するものではなく、「揺れ → 起動 → 収束」という時間的プロセスを経て立ち上がります。

批評の前層/後層が空間的な階層を指すのに対し、私の前層/後層は知覚の時間構造を指しています。 そのダイナミズムは、音楽におけるレコードと針の関係に似ています。

作品とは、一枚の「レコード」です。 そこには、物質としての絵の具とキャンバスがあるだけで、それ単体ではまだ音楽(構造)は生まれていません。しかしその盤面には、作者が視覚法則にどう向き合ったかという「態度としての溝」が深く刻み込まれています。

鑑賞者が作品を見るという行為は、レコードに「針を落とす」ことです。 人間の眼が画面に触れることで、はじめて「視覚法則(重心・方向・中心の力学)」が起動します。

やがて針が溝を読み進むことで、私たちの知覚の中に「音楽(構造)」が立ち上がります。

前層と後層 ── 知覚の二つの状態

人間の視覚が作品と出会うとき、そこには決定的に異なる二つの状態が生じます。 その状態は、「水」と「氷」の関係に似ています。

  • ● 前層(非収束 ── 揺れの層:凍りつく直前の水) 視覚法則が起動しているものの、あえてひとつの結論へと収束せず、中心が確定しないまま、あらゆる可能性を孕んだ「収束直前の統一」が持続する状態。
  • ● 視覚法則(Visual Laws) 前層の揺れの中で起動し、知覚を収束へと向かわせる普遍的な力。視線を導き、階層を生み、構造を立ち上げる。言葉より先に、私たちの知覚をそっと動かす力学。
  • ● 後層(収束 ── 収束の層:氷) 視覚法則が完全に収束し、中心が定まり、像がひとつの構造として確定(固定)した状態。

【絵画における態度】 作品そのものが「前層」「後層」に分類されるわけではありません。また、作家がどちらかの層に固定されて「いる」わけでもありません。 そこにあるのは、作家が視覚法則に対して取った態度が「前層的」であるか「後層的」であるかという、緊迫した選択の軌跡です。私の試みる「前層的作品」とは、知覚がカチッと固定されてしまう手前の、最も美しい「収束直前の統一」を、画面の中に永遠に保持しようとする態度そのものです。

理論への理解を深める Q&A

Q.1 前層とは「未完成」の状態を指すのですか?

A. 違います。未完成とは、構造(後層)へ向かう途中で描くのをやめた、単なる「未到達」の状態です。

私の言う前層とは、バラバラな未完成ではありません。例えていうなら氷として固まる前の水の様にあらゆる可能性を孕んだまま、画面全体が極めて高度に統められている「収束直前の統一」が持続している状態であり、それ自体が完全に自立したひとつの決着(完成)です。

Q.2 中心は、具体的にどこで生まれる(生成する)のですか?

A. キャンバスという物質の上ではなく、作品の持つ力学(視覚法則)と、それを受け取る「鑑賞者の知覚のあいだ」で生まれます。 レコードの溝が針と擦れ合うことで初めて音楽が立ち上がるように、画面に刻まれた私の態度としての力学が、あなたの眼を動かし、あなたの脳内で中心を生成し始めます。中心とは、固定された authority(権威)ではなく、常に知覚のなかで動き続ける generative(生成的)なプロセスそのものです。それは揺れている間は前層的で固定されれば後層的になります。

Q.3 前層の「心地よい揺れ」と、単なる「破綻や不快さ」の違いは何ですか?

A. 画面の上の視覚法則(方向、重心、引き合い)が、「動的にドライブしているか」、あるいは「膠着(こうちゃく)して死んでいるか」の違いです。 単に見づらく不快な絵は、視覚法則が中途半端に相殺し合って視線をガチガチにロック(窒息)させているか、あるいは知覚の予測をただ雑に裏切り続けて脳を疲弊させています。心地よい揺れ(前層)には、激しく揺さぶられながらも、その奥にな構造の必然性と、呼吸の回復が担保されています。だからこそ、揺れは破綻ではなく、 収束直前の統一としての“前層” になるのです。

Q.4 モダニズム/ポストモダンとの差異を、改めて一言で言うと?

A. モダニズムが「形式の純化」(中心が自動的に単一化される)で行き詰まり、ポストモダンが「中心の不在(社会文脈への逃避)」へと向かったのに対し、私の試みは「中心の生成プロセスそのものを絵画に取り戻す」ことです。 絵画を空間的な階層(表面か奥か)で分析する既存の批評に対し、人間が絵画と出会った瞬間に身体の中で起きる「知覚の時間構造」を扱っている点が、決定的に異なります。


追加質問

Q. ノーランドは前層的と言えるのですか?

A. 部分的には前層的に見えますが、前層そのものではありません。 ノーランドは中心を「置く」ことで、にじみや拡散といった物質的な揺れを発火させています。 しかしその中心は形態として最初から固定されており、揺れの中で生成することはありません。

前層とは、中心がまだ定まらず、視覚法則が複数の可能性を試しながら 知覚の内部で中心が“生成を開始する時間” を指します。 ノーランドの揺れは物質の揺れであり、中心は動かない。 そのため、前層的な現象を部分的に持ちながらも、前層ではありません。

Ryuji Moriyama 森山龍爾